上村ゆかこ
ネオテニイの成長記録
芸術から遠ざかる勇気を

今日は終戦記念日です。
この時期になると、いろんな場所や放送局で、戦争について考えるためのソースを見ることが出来るけれど、
当事者が本当に伝えたいと思っているリアリティを、
果たしてうまく伝えることが出来ているだろうか、と考える。
昨日まっきと、そんな話をしていた。
私の出産に立ち会ったことで、まっきは人が死ぬ瞬間と、産まれる瞬間を両方見たことになった。
で、思ったという。
ビジュアルで伝えるのは、無理だ、と。
ちょうど最近のニュースで、教諭が妻の出産シーンのビデオを授業で見せて、
苦情を受けたという話があったけど、
映像が伝える生の瞬間のグロテスクさのインパクトは、
戦争教育として、原爆の悲惨な絵や写真、映像を見せる、
そのときに子どもたちが受けるショックに似ていなくもない。
その強烈さに、引いてしまう人も多い。
「怖い」「気持ち悪い」「見たくない」
こうした反応に対しての、
現実から目を背けるな、忘れてはいけない、知らなくてはいけない。これが真実なのだ。
という、意見はもっともだ。
でも、こういった生死の瞬間のインパクトを映像で伝えようとしても、
体験したことのない人間には、その衝撃的なビジュアルの内側にあるもの、意味するものは、
その映像の強烈さがかえって壁になって、伝わらないのではないか、
それで興味を持ってもらえるとしたら、その強烈さに興味や好奇の目を向けているのにすぎず、
生命の尊さや、戦争の罪深さをリアルに感じているわけではなくて、
目をそらす人はといえば、あまりにショックで頭では分かっていても、
映像からリアルにその意味を感じ取る余裕はない。
で、結局紋切り型の感想を述べてみるしかない、で、おしまい。
なのではないか、と。
なるほど。
わたしもその話には納得した。
写真を撮っていると、過度に加工することへの罪悪感とか、
何がリアルで、何がフィクションかとかを考える。
どこまで現実に対して誠実であるべきか。
事実をありのままに伝えるのに邪心が入ってないかとか。
でも、この話を聞いて、その誠実さは傲慢さでもあるのかなと思った。
「ありのまま」は、主観なしに成立しない。
実際の体験なしに、ビジュアルだけで「ありのまま」を表現できるということこそが、幻想。
ありのままの映像を、嫌悪や拒絶、好奇の目で迎えられることを
不当だとか不誠実だとか文句を付ける方が傲慢なのかもしれない。
で一方、芸術作品は、その傲慢こそが正義。
伝わらないということを、伝える存在というべきか。
「あなたはこれをどう見るのか?」
と、挑発的に問いかけて、
嫌悪や拒絶、好奇の目を無意識に向けてしまう鑑賞者自身の内面を暴いたり、
分かる振りをしようとする虚栄心を自覚させたり。
傲慢であることが、存在意義になる。
でも、「なんとしても伝えたい」と思うなら、この傲慢さは、邪魔にしかならない。
戦争や出産にまつわる映像を通して、
芸術をしたいのか、
リアルな感情を伝えたいのか。
まずそれをはっきりさせること。
そしてリアルな感情を伝えようと思うなら、「ありのまま」のビジュアルはむしろその目的を果たせないということ。
こんなことを考えるとき、人に自分の気持ちを伝えることは芸術よりも難しくて、
芸術という言葉が、甘えにも似て聞こえたりもして、
ちょっと反省したりもするのです。
芸術的であろうとすること、表現に誠実であろうとすることは、
誰かと心を分かち合うには、ときに忘れなければいけないのかもしれません。
●写真はまっき撮影
2009.08.15(土)18:34 コメント(
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