
最初に断っておくと、自分は、カヲル君登場以降のTV版&劇場版2作を、後追いで(しかも、世間的に一番、「エヴァ」熱が冷め切っていた頃)鑑賞しただけの超ライト新参です。
今となっては、うろ覚えです。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」は、公開初日に鑑賞しましたが、"ヤシマ作戦"のシーンでトイレに行ってしまいました…。
超ライト新参からの視点での4部作の感想もアリなのでは?
それでは、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を、公開初日に、途中で席を立たず、最初から最後まで、一応、観た感想です。
最初に言っておくと、面白いです。
正直、この一言で終了なのですが、誤解していた部分を個人的に訂正して行きます。
誤解していた部分とは、今回のリメイクの個人的な解釈として、「ヱヴァ」とは、コミュニケーションツールとして優秀であり過ぎた為に、全ての文脈から、語る隙間を全て埋められてしまう不幸に直面し、完全にツールとしての生命を奪われた「エヴァ」を更新する、言わば、"延命措置"だと解釈していました。
しかし、実際は、「ヱヴァ」とは、語り合えば語り合うほど、本質から遠ざかって行く、コミュニケーション不全を引き起こすツールだという事が分かりました。
つまり、正解は、表層的な部分にしか無く、真希波かわいいよ真希波という事です。
勿論、表層的な部分にも普遍性は無く、一個人としてのコミュニケーション不全の結果です。
これは、物語にも当てはめる事が出来て、登場キャラクターは、ヱヴァンゲリヲンを触媒としてディスコミュニケーションし続けます。
現代の少年少女に、このディスコミュニケーションのメタファーを当てはめると、携帯電話が先ず思い浮かびます。
これはTV放送当時、まだ一般には普及していなかった文化ですが、現在、学園ラブストーリーを制作する上で、携帯電話というモチーフを抜いて描く事は困難を極めます。
寧ろ、学園ラブストーリーというモチーフが、ケータイで制作されます。
つまり、ヱヴァンゲリヲンとは携帯電話なのだと思います。
要するに、思春期の少年少女の意識や感情を格納するデバイスとして機能している点において、ヱヴァンゲリヲンと
携帯電話は似ているという事です。
身体がデバイスの内側と外側に存在する違いはありますが、そもそも、意識が身体の内側に存在するという考え方
自体が少し怪しく感じます。
"ヱヴァンゲリヲンを携帯した学園ラブストーリー"と言ってしまうと安っぽくなりますが、こんなに涙腺を刺激する青春
物語を中々、鑑賞する事は出来ません。
こう考えると、"ヱヴァ携帯"は必然だったのだと思います。
視覚表現については、何も言う事はありません。
当サークルには、一生、真似出来ません。以上。
全てが空っぽになった90年代を象徴するように「新世紀エヴァンゲリオン」「ラブ&ポップ」を描いた庵野秀明さんは、
より絶望的に空っぽになったゼロ年代や、空っぽのままであろう10年代に"何"を描くのか?
出来る限り注視します。
あと、読み飛ばしてしまった人の為に、もう一度、書きます。
真希波かわいいよ真希波。
PS: 勿論、この感想は全て、本質から遠ざかっています。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 2009年6月27日公開
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